嘘つき漫画家
宮西▪ 漫画家って結構ズルいんですよ。
そんなに知りもしない事を知ったかぶるんです。「講釈師見てきた様な嘘をつき」ってやつ。(笑)講釈師は伝承芸でそれでいいんですがね。事、マンガとなれば話は別です。マンガと云えども芸術の端っくれですから。
画風はもとより、お話も借り物ばかりで、殆どが流行りのTVや映画の二番煎じ三番煎じということです。
一般的でないものをいち早くパクッた者勝ち。日本の文化移入の常套手段ですね。文化移入と云えばご立派だけど、文化芸能も右にならえの柳のしたにドジョウがいっぱいじゃ、泥棒家業と言わざる得ない。(笑)
マンガにおいても同じことが行われていると言いたいの。それも個人レベルでね。
海の向こうの事なんか誰が判るもんかと何の罪悪感も無い。「我、オリジナルなり!」という顔をしてる。
芸術の成果であるその表現を、これはイケる!とばかり盗み取っては名義を書き替えるんですよ。
マンガには絵云々以前にこのような問題を抱えてるわけ。「バレなきゃいいや、たかがマンガだから」とね。それを良しとするマンガ家はやはり「嘘つき」と言うしかないでしょ? しょうがない日本人の体質だね。(笑)
現代、いかなる分野であれ、ルーツを避けては通れないんです。それは苦悩と工夫の産物です。そのために狂気に死した者も数限りない悲劇の歴史だよ。
「オレが芸術だ!」とか「誰の影響も無い!」とかよく聞くよね、きみはどう思う?
ーー好きなものにきっちりと影響を受けた方がいいと思いますし、「誰の影響も無い!」という人ほど、結局ものを知らなくて割と普通なことが多い。
宮西▪ ボクはこう思うんだ。
マンガ家に限らず全ての創作に携わる者は、自分が何処から来たのかその来歴をしっかり証しすべきだと…。それはアーティストの証明さ。
芸術とは作品じゃなく人間性に在るんだと考えるからさ。
良い例があるよ、ブライアン・ジョーンズは生涯に1曲の歌も作らなかった。けれど彼をアーティストじゃ無いなんて言う人がはたしているだろうか!?アートとは生き方なんだよ!
粋がっても思い上がっても良いんですよ。(笑)そこに苦悩があれば、そこに苦しみがあれば。ところが漫画家の場合はあっても酒かギャンブルなんだなぁ。
ーーローリング・ストーンズのルーツにあるアメリカのブルーズを知らずして、ローリング・ストーンズを語るように、描くということですか?
宮西▪ ちょっと違う。語るのは評論家だよ。成りすます、と言ったところだろうね。生き方がともなって無い。
ストーンズを持ち出すまでもなく、生まれた国も時代も違うけれども、根底にある共通項の様なものを意識しているかどうかが、その作家の質というか。マンガの場合、質が感じられないんだよ。
自分の中にあるものを素直に出して、それが他の国の、他の文化と、違う時代のものとが結びついていることが大切なの。そこに普遍性が宿ると思うんだ。
画風の確立
ーー宮西さんの初期の作品は、やはり真崎さんの線に近いものだと思いますが、例えば点描だったり、自分のオリジナリティに近づいていくきっかけの様なものはあったんですか?
宮西▪ それは漫画を描き始めた頃から、ちょこちょこ気になっていたんことですね。中学時代から。
それで、真崎さんのところでいろいろ描かせてもらってハッキリして来たんでしょうね。
点描に関して言えば、最初にベルメールを見たときに線と点描というのには気づいていたんですけど、自分の身体の中の水脈を形にすることがまだ出来なかった。
それを真崎さんは教えてくれた! ここでしょうね。(笑)この線をこうして、ああしてと思うでしょ? これは全く技術的鍛錬の問題です。(笑)
なかなか描けなかったですよ。既成のマンガ的表現と言うのがあって、それに囚われて躓いてたように思います。それは独立してからも、しばらく続きましたね。
絵柄が変わる大きなきっかけは、三流エロ劇画です。最初はエロ劇画を描いてるなんて意識しなかったんだよ。気が付くとそう呼ばれていたんだな。
ボクの中のウズウズするものに丁度よかったのでしょう。(笑)
ーールサンチマンのような、何かマグマの様なものがあったんですね。
宮西▪ 確かに、それはあった。作品を描く時は特に怒りに満ちていた。怨念がそこにオンネンって感じ!(笑)
それを引き摺り出すことがエロ劇画によって出来たのかな。
ーー独立して初めての作品が「COM」の新人賞に入選したけれども、結局掲載されなかった。
宮西▪ そうそう、つぶれちゃったんでね。それを拾い上げてくれたのが徳間書店の「コミック&コミック」の鈴木敏夫さん。
ーー後のスタジオ・ジブリの鈴木敏夫さんですが、付き合いはあったんですか?
宮西▪ 徳間編集者の頃はね。アシスタント時代の先輩の担当者だったの。彼は当時、新入社員だったね。
ーー真崎さんのところでアシスタントをしている時に色々な編集者も来るわけですが、そうした人との付き合いはあったんですか?
宮西▪ それはご法度! 真崎さんの一番嫌ったところです。一切無い!
ーーじゃあ、辞めたら何のツテも無いわけですか?
宮西▪ 当然そうであるべきでしょう。
たまたま先輩が徳間の雑誌で連載し始めたから、それを手伝いに行った時に鈴木さんと知り合っただけ。年齢も近いし、フランクな人でした。映画が大好きで、ゆくゆくは映画を作りたいと口癖のように言っていたら、ジブリになっちゃった。
まあ、良いとか悪いとかはボクの言うべき事じゃないからね。(笑)
ーー「ガロ」に持ち込んだというのは二作目ですか?
宮西▪ 違う違う、一作目の「木葉通しの日の輪を越えて」。
ーーああ、「COM」が無くなったから「ガロ」に持ち込んだと。それで「ガロ」の長井勝一さんに「君は上手すぎるから、少し下手に描きなさい」と言われたんですね。もう「ガロ」がヘタウマ的なものにシフトしていましたかね?
宮西▪ 30ページなら一晩で描きなさいと言われてね。
先生(真崎さん)が「計三が「ガロ」に載ったらガロ読者も増えるだろう」と言ってくれたから持って行ったんだけどね。それを長井さんに面と向かって「載せろ」と言わんばかりに言っちゃったんだよ、バカだね~(笑)。
ーーそれから、挿絵の仕事をするようになるんですね。
宮西▪ 「コミック&コミック」誌が鈴木さんの肝入りで劇画大賞というのをの設けるんだけれども、そこに例の作品を出してくれないかと言う話になって、出しました。
それで新人賞を獲ったから、徳間書店の「アサヒ芸能」「問題小説」で挿絵を始めました。
いろいろな仕事をもらって描いてました。
そのうちに黒田みのるさんというイラストレイター、黒田さんは挿絵画家ではなく日本で初めてイラストレイターと名乗った方です。その人が僕のことを絶賛してくだすったんです。で、そういうこともあって挿絵の仕事が増えていきました。
ーー結婚なさったこともあって、生活のためにエロ漫画を描きはじめたとありますが……
宮西▪ その頃はまだ出会って無い! なにも結婚しなくたって生活はあるからね。(笑)
この挿絵の時期が画風を決定した貴重な時期と言えるでしょう。
当時はまだエロ漫画とよばれてましたが、自分の好きなものが描ける場として選んだつもりです! それに、大手出版社からは全くお声がかからなかったから。(笑)
今の徳間書店は大手出版社かもしれないけれど、あの頃は中の下の会社で実話雑誌なんかを出している俗な三流出版社と言うのが一般の認識でした。(失礼)
ーー雑誌に描き始めた最初の作品は何ですか? 「MOON LIGHTSERENADE」とか「人食いの花弁」とか?
宮西▪ ブッブゥー! はずれー! そんなの忘れたよ。(笑)
最初は少年画報社だった。「ヤングコミック」の増刊で「劇画時代」ってのに『貧しきフリュート』だよ。次が双葉社「別冊漫画アクション」に『飛び出ておいでよBANANAベイビー』その後はグッチャグチャで判りません!
ーー三和出版は「ヤングウインキー」に掲載された「食いしんぼうレディ!」が早いかもしれません。
宮西▪ そんなのありましたっけ? 黙秘いたします。(笑)
少年画報社と双葉社、その二社に掲載されたら、その何倍もの出版社からオファーが来ました。あの頃は一本描くとすぐに他の出版社から連絡があった。
ーーそれで次の年(1978年)から「漫画大快楽」「劇画アリス」といった所の仕事が増えたんですね。
宮西▪ 「漫画大快楽」はすぐに連絡が来た。なぜかというと、そうした漫画好きな編集者たちのお手本は「ヤングコミック」にありましたから。
本当は石井隆さんとか宮谷一彦さんといった漫画家に描いてもらいたかったんです。だけど、注文を出しても受けてもらえないのね。こんなド三流には鼻もひっかけない。でも、新人ならってんで、しかも凄いすごい絵を描くというのでバンバン注文が来たというわけね。
毎日知らない人から電話があった。「ワンカットでも良いですから、なんでもお好きなものを!」と言ってね。
注・雑誌に掲載された作品に関しては、こちらの詳細なサイトを参考にさせていただきました。
丸尾末広
ーー1977年から1985年あたりは、ほとんど月一本のペースで描いていて、かなり忙しかったと思いますが、この時期アシスタントのような人はいたんですか?
宮西▪ もっと仕事してました。
当時手伝ってもらった人は何人もいましたよ。正式な形のアシスタントというのは一人しかいない。それが丸尾末広くん。
ーーああ、ここで丸尾さんが出てくるんですね。
宮西▪ エロ劇画にも限界を感じて来ていて、一枚絵のイラストレーションに移行するしかないかと思い始めていた頃ですね。妻とは別居状態でアパートの6畳の部屋を借りて仕事してました。そのアパートの一階にコロコロコミックでギャグ漫画を描いている若者がいてね。彼の友達が丸尾くんだった。
そのギャグ漫画を描いている若者が僕の絵を見て「これ丸尾ちゃん好きだろうな」と思ったらしい。話を聞いたら、「変なものが好きで、漫画家になりたいんだけれども、ろくに漫画も描かないでいる。今度紹介しますから何とかしてやってくださいよ」と言うから、会ったんだよ。
ーー最初の印象はどうだったんですか?
宮西▪ その友達が言うように訳もわからんと言うんじゃなくて、丸尾くんも自分のやりたいこと、プランをちゃんと持ってました。ただ、環境に恵まれないだけだと感じました。なにしろ、最初に会った時に蒲田図書館からガメてきた紙芝居「少女椿」を持ってきてましたからね。
ーー丸尾さんの漫画の世界そのままですね。(笑)
宮西▪ もう、盗むのが趣味ですからね。画材とか全く買ったことがないという。(笑)
困った奴やなとは思いましたけど。性癖ですね、ハハハ。
ーー歳は同じですね。
宮西▪ 彼は描く方法を知らなかったから、それを教えただけ。それに、一人で仕事は辛いし、誰か話し相手も欲しかったの。
ーー期間的にはどれぐらいですか?
宮西▪ 一年いなかったと思う。彼はバイクで来ていて、バイク事故を起こしたんですよ。それで腕を骨折したのかな? それをきっかけに来なくなりました。それで、辞めると言うので、お金をあげることも出来ないし、その代わりにと久保書店とサン出版と、編集者を紹介したの。
ーーそれで「劇画悦楽号」(サン出版)の「リボンの騎士」でデビュー。
しかし、丸尾さんが単行本「DDT」で悪い漫画家の例として宮西さん、平口広美さん、石井隆さんをあげているんですよね。
宮西▪ あはははは。面白いよね。
「コミックビーム」の編集者も、僕と丸尾くんが喧嘩別れしたみたいに言うんだけど、あれはボクに対する謝辞だと受け取ってるよ。(笑)
だけど皆さん喧嘩をしたと思うようだね。(笑)
漫画から絵画へ
ーー仕事があったエロ漫画も衰退していきますよね。
宮西▪ だから建築のパースとか、色々な仕事をやりましたよ。不動産の間取り図とかも描いたし。向こうの人も「建築を学んだわけではないのに、何で図面起こしが出来るの?」と不思議がってた。(笑)千葉ニュータウンのパース画とかも描いてます。
絵で見るヴィジュアル百科とかの挿絵とかが収入源ね。
そうそう、図書新聞のレタリングなんかもやりましたよ(笑)
ーーだんだん、漫画から挿し絵系の仕事にシフトする感じがありますね。それが今度は絵画の方にシフトしていくような気がしますが、そのきっかけのようなものはありましたか?
宮西▪ それは『エステル』『リリカ』(ペヨトル工房)を出した時の出版記念でギャラリー「美蕾樹」でやったのが切っ掛けだったと、今からすると考えられます。
ーーそこからヴァニラ画廊とかパラボリカ・ビス、ギャラリー白線などで個展を開くようになりましたね。
宮西▪ そこまでいくのは長い年月を費やしました。
その間には親の介護もあり全く仕事が出来ないことも有りました。泣く泣く知り合いの出版社で編集の仕事をしてる時に「ヴァニラ画廊」から連絡を頂くことになるのです。(笑)
時は既に二千年に突入してますよ(笑)!
ーー絵画に転身してから、結構個展も開きましたね。
宮西▪ 順調に、ある程度絵も売れてね。それがコロナになって絵が売れなくなって、身体もおかしくなって、癌と判明して、現在に至るわけです。(笑)
ーーなのに、フランスとイタリアから引き合いが来て漫画の単行本が出版され、その本がフランスではマルキ・ド・サド賞(バンドデシネ部門)を受賞するし、不思議なものですね。
宮西▪ 海外版のオファーは癌と共にやってきたよね。まるで苦痛の報酬のようじゃない?
今度はアメリカ版が決まり、フランスから「Onna」のレコードリリースがあるよね。するとどれだけの苦痛の支払になるのかな?
収録/2024年9月8日 盛岡市安倍館にて(最終校正2026年4月2日)
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