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イタリア版「リリカ」巻末インタビュー
宮西先生の作品の一つ(「エステル」)がついにイタリアに上陸し、もう一つ(「リリカ」)は近日中に出版される予定です。
このインタビューでは、イタリアの読者に宮西先生の作品を芸術的、また歴史的に深く理解してもらいたいと考えています。

1、まず、宮西先生が漫画家になったきっかけを教えてください。
この度のイタリアでの「エステル」並びに「リリカ」の出版は私にとって喜びであり、誠に光栄に存じる次代です。
こうして書面という形ではありますが、インタビューの機会を頂き有難う御座います。
出来うる限りの誠実さをもってお答えさせて頂きます。

① さて、この質問は簡単なようでその実とても難しい問です。それと言うのも、そこには私の根本があるからなのです。出来るだけ簡略し解りやすく説明いたします。
私は物心が付いた時には既に漫画家に成りたいと言って母を困らせておりました。
世界の果て日本。その又、田舎の山奥に住む少年にとって、マンガは最も身近な楽しみであり、慰め且つ夢でもありました。マンガ雑誌は言わば私に開かれた世界への窓であったわけです。 
まずこれを先天的なきっかけとして上げておきます。
次にくるのが後天的なきっかけ。
絵を描いて生計を立てる。職業漫画家としてのプロの道へと導いたきっかけです。
それは16才と偽った、14才の家出少年をアシスタントに雇ってくれた漫画家、真崎・守(マサキ・モリ)。
恩師との出会いをおいて他にはないでしょう。
誤解の無いよう申しますが、師は私を保護するために採用したのです。それほど少年の私は切羽詰っていました。
私にとって育ての親であり、私が先生と呼ぶ但一人の存在。
それが大いなるきっかけ。
真崎・守 です。   


2、西洋美術にどれだけの影響を受けましたか? また、漫画以外の他の芸術からも何か影響を受けましたか?
私は「エステル」が出版された際、宮西先生の作品を簡潔に説明するため、潜在読者には、宮西先生の私的なスタイルはまるでハンス・ベルメールの芸術が、つげ義春の「ねじ式」に出会ったようだと表しました。
②  はい。ご察しの通り、私が絵を描くにあたって大きな影響を受けたのはハンス・ベルメールその人です。
私が貴方の仰った「ベルメールとつげ義春の出会い」というマルドロール的文法に見合う者であるかどうかは別として、こそばゆくもあり有り難くもあります。
作品を見て頂ければ分かるように西洋美術、取り分けイタリア・ルネッサンス芸術が与えた私への影響ベルメールル同様大きなものです。たんに絵の問題だけでなく。
人物設定や、私の場合あまりストーリーは関係ありませんが、そのイメージは、シンボリスム、幻想絵画、シュールレアリスム、それらに由来する思想です。
マンガ以外の影響と云われましたが、美術以外と解してよろしいですね。
特筆すべき影響はやはり映画です。
その影響は「鉄道員」「自転車泥棒」「靴磨き」に始まり「サテリコン」「アポロンの地獄」至ります。
後はロシア文学、フランス詩、とロックミュージック。


3、個人的に、体に点描を使って線を引く技法が大好きです。その点描技法を体に応用するというアイディアにどのようにして辿り着いたのでしょうか?
③  これ又、大問題ですね。
事が重大であるが故にこの問には端的な事実をもってしてお答すべきでしょう。
点描の由来はやはりベルメールです。
彼のエッチングだったか、ペン画だったか、タイトルは分かりませんが、ある小さな作品に描かれた光り表現がヒントでした。表現としてはマンガ的記号化されたものです。発光本体を中心に放射状に複数の並んだ点で光りをあらわしたものです。よく見るとその点は両端が小さく中央に行くほど太く大きくなっているではないですか、私は「これだ!」と思いました。ベルメールがよく用いる体の起伏に沿った線によって肉体を描く技法とこの点描を組み合わせれば凄い物が出来ると思いました。同時にボクには出来るとも思いました。
その頃はまだ中学生でした。小学五年生の時に興味本意で買った世界の㊙️画集がベルメールとの出会いでした。それから何年も描く事はせず、只々好きな絵を見続けた結果、その確信を得たのです。
幼い私は思いました。「いつか近い将来、突然描けるようになる!」私は信じました。そして祈りました。
「世界で一番絵が上手になりますように……他は何も要りません」と。
最後の部分は確かにかなえられたようです。


4、宮西先生の漫画は、石井隆が切り開いた道を手本に進んでいたエロ劇画の水準をさらに高めました。この前提から、次の質問をしたいと思います。 宮西先生にとってエロティシズムとは何を意味しますか?
④  これは又々ズバリと来ましたね。
この問題は先のように端的にとはまいりません。ひとつの思い出話をもって答えとさせて頂きます。タイトルは…… 『複葉機とキス』 
このお話はボクがまだ古本屋巡りを覚える以前のこと。ですから小学校4年生であったと記憶します。
年ふりた木造校舎は季節季節に洗われ干され褐色の張り板の肌を初夏の陽に反り返しておりました。
まるで日向ぼっこの大きな猫さながらに冷えた体を暖めています。
お昼のチャイムが鳴る。ボクはお弁当もそこそこに人気の無い旧校舎を駆け上った。
書庫に忍び込むのだ。数ヶ月前、一斉清掃の際に偶然見付けたのだ。そこは廃棄本の書庫。部屋というより屋根裏のようなスペースだった。
忍び込むにはそれだけの理由が有りました。ボクは見付けたのです。古い菊版サイズの図鑑を。そこにはありとあらゆる複葉機と戦闘機の設計図が載っていました。それも骨組みの木製組み立て図がびっしりと全ページにです。しかも写真ではなく緻密な製図画で。
ボクは一目見て虜になりました。その本が欲しくて堪らなくなりました。このまま持って帰ろうと何度思ったことでしょう。必死に誘惑をこらえました。
毎日のように薄暗い屋根裏に通いつめ飽きもせず眺めて、その精巧さ、美しさ、裸の木組みの感触に酔いしれてため息をつきました。
これは何と言っても骨組みだからよいのです。綺麗に塗装された完成品ならばプラモデルで充分です。しかしここにあるのは皮を剥かれた生の飛行機の姿なのです。見ているだけで痺れるような戦慄を感じていました。
そんな或日のことです……。
下校のチャイムが鳴り、フォスターのメロディーが流れてきます。
ボクがいつものように屋根裏から出て階段を降りて行くと踊場のところで呼び止める声がしました。とっさにボクは見咎められたと凍り付きました。
呼び止めたのは同級生の伊藤知子でした。
彼女はスポーツが得意なとても利発な女の子でしたがオマセでも有名でした。まだ小学の4年生と言うのにバストが80もありブラジャーを着けていたので上級生の男子の注目の的でした。
「見られた」ボクはあの本を失敬しなかったことを悔やみました。『もうあそこに行けなくなる、きっと先生に告口するだろう』
「ちょっと来て」彼女が妙に真面目くさった声で言った。
「ほら、ここに来て耳をかして……」やっぱりそうだまちがい無い。ボクはおそるおそる階段を下りた。
「もっと近く!お話があるの」
もうボクは観念するしかないと彼女の言う通りにした……その時だ。それはとんでもない出来事でした。
何かベチャッとしたものがボクの唇に吸い付いて来た。熱く軟らかなものが口をまさぐる……キスです。
彼女は両腕てボクの頭を抱え込み遮二無二キスをする。ボクの眼から泪がボロボロと落ちた。
ひとつの恐怖から更にもうひとつの恐怖にボクはふるえる。
彼女は駅前に大きな製材所を営む家の長女だった。二つ下に双子の妹たちがいた。二人の妹たちはお転婆の姉とは反対にとてもおとなしく虚弱な感じすらする娘でした。人は腹違いだのと噂していましたが彼女は双子の妹たちを母親のように世話を焼き可愛がっていました。
それがどういう訳か、小学校入学以来ボクに付きまとっているのである。
今となっては微笑ましい思い出ですが、彼女はどうでしょうか。今も元気にいるとしたら、孫もいる歳です。幼い孫を見て己が少女時代を懐かしむ時など苦い笑みを浮かべることでしょうか……いや きっとボクの事など忘れてしまったに違いありません。

私にとってエロティシズムとは肉体の善と悪の外、精神の内に咲く花か果実のようなものです。


5、宮西先生はエロティシズムのブーム、特に三流劇画の全盛期を経験され、その貴重な代表者となられ、当時の重要な雑誌に掲載されました。イタリアでは、宮西先生の作品が出版される前までは三流劇画は知られていませんでした。三流劇画の全盛期とは宮西先生にとってどのようなものでしたか? また、当時働かれていた各出版社の編集上のリクエストや、ご自身の芸術を表現する自由についてもお話をいただけるとありがたいです。
⑤ 三流劇画を歴史的に俯瞰することは私には出来ませんが、ブームの中心に居た者の一私見としてならば少しはお話出来ます。
先ず"三流劇画"その名を構図的に見てみましょう。
三流=弱小出版社 に対する 一流=大手出版社
弱小=劇画 に対して 大手=マンガ
劇画=リアル に×対して マンガ=フェイク
リアル=一流 に×対して フェイク=三流
となり、三流と名乗るエロ劇画こそ新しく、面白い、真の一流作品なのだ。と言う反語なのがお解り頂けるでしょう。
私の知る限り、このブームの火付け役は当時の「劇画アリス」二代目編集長であった故・米澤喜博です。彼は明治大学の漫研出身者でちょっとした同人誌サークルを率いてもおりました。それが後の"コミケ"となるわけです。
学生時代から出入りしていた"みのり出版"における「月刊AUT」の編集を経てアリス出版社員となったのを機に、ひとつ狼煙を上げたのが「月刊読本三流エロ劇画特集」であったのです。その狼煙とは何に対してか? それは先の構図で示した大手出版社にでありました。
80年代のマンガの渦の中心は三流雑誌であったことは間違いない事実です。その頃の大手マンガ雑誌は、これと言ったヒット作も無く、しぶしぶそれまでは禁じ手であったエロに触手伸ばし始めた頃であり"三流エロ劇画ブーム"はそれに対する自爆テロとも言えるのではないだろうか。

今まで私の作品に対して編集サイドから注文は一度も受けたことはありません。
「何でもいいです!好きにやって下さい!」と各社同じことを言ってましたね。まぁ、これも一種の注文と言えなくはありませんが。
表現する自由への制限も一再ありません。全て私に一任されていました。その頃の私に対する各編集の評価は次のようなものでした。「ひさうちは売れる。平口もマァ大丈夫だろう。しかし宮西は絶対に売れない。」編集者はそんなものにとやかく言っても無駄だと思っていたのかもしれません。
強いて制限があったとすれば、それは時間でした。締切までの期間の長短が製作に影響する訳ですから。


6、さらに、当時の証言によると、「漫画エロジェニカ」と「漫画大快楽」の間には激しいライバル関係があり、「ガロ」と「COM」と比較されるほどでした。ご自身、その争いをどのように感じましたか? 何かエピソードはありますか?
⑥「漫画大快楽」と「漫画エロジェニカ」の違いは、その誌面を見れば明らかです。と言ってもこれをお読みの皆様には出来ないことゆえご説明します。前誌は全共闘を横目に、ノンポリを自認していたインテリくずれの小谷徹。
片や後誌は、寺山修司門下の無頼派演劇人の故・高取英が編集長。ですから自ずと違いが作家の選択にも出る訳です。
大快楽は絶対に下手な絵は載せませんでした。対してエロジェニカは下手でも何でも勢いのある絵を好みました。
この二誌の間に何があったかは知りません。作家サイドから見ていた限りでは只じゃれあってるようにしか感じませんでした。
二人の違いを示すエピソードがあります。大快楽の小谷氏と最後に会った時の言葉が思い出されます。
私はその日、たまたま新宿で夜明しをしてしまいました。昼近くに原稿料を前借に行くはめになった時のことです。彼は私と視線も会わせず「イイネ~芸術家はー!飲み歩いて女と遊びまわって、おまけに前借りか~!?」これを最後に彼とは袂を分かつこととなりました。同じような場面が高取との間でもおこりました。待ち合わせの喫茶店て私を見付けるなり、彼はいつもの調子で「セーンセ~困りましたね~」と笑いながら描きもしない原稿料を出してくれました。
誤解のないよう申しますが、小西氏の弁はまったくの誹謗中傷で、当時の私は酒を飲み歩くなどということはなく、ましてや女遊びなどは無縁の生活をしてました。この話しには落ちがあります。これは後に判ったことなのですが、この時期池袋界隈で「俺は宮西計三だ!」と言って毎晩飲み歩いてるファンの大学生がいたということです。


7、80年台の三流劇画雑誌の編集者、高取英などは、宮西先生をエロ劇画の代表者のひとりとして話しています。また宮西先生の作品がいくつかのニューウェーブの雑誌にも掲載されていることからニューウェーブと関連付けています。80年代には、ご自身のスタイルはまだ劇画に近いと感じていましたか? それともすでにニューウェーブの一部だと感じていましたか?
⑦"ニューウェーブ"と言う呼称は80年に入り頻繁に使われるようになってました。私も"ニューウェーブ三羽烏"の一人と言われていました。どちらかと言うとマンガ情報誌などで標榜されていたように思います。同人誌系作家の商業誌参入も激しくなりだし、規制の作家と区別したいといったこともあったのでしょう。
時は"パンクニューウェーブ"インディペンデントロック華やかなりし頃。コミケ辺りでは最早出版社不要!の声が聞こえ始めていました。
私の作家活動はそんな事とは関係ない次元で進んでいました。イラストの仕事が増えマンガもアート傾向へ傾斜して行きます。私自身にはマンガと劇画の区別は無く、例えこれから作品がもっと芸術的になったにしても、それはマンガ表現の最先端の形なのだ、と思ってました。
時が進み90年代になると、マンガの仕事は無くなりました。三流出版社自体が撤退してしまったのです。テクノロジーの変化、資本力を持つ大手だけが残りました。描き手も変わりました。
「三流エロ劇画」は死滅したのです。


8、現在、漫画は読まれていますか? 2000年代初頭のインタビューで、漫画を読むのはやめたとおっしゃっていました。また、もし読まれていた場合、最近の作者で気になる方はいらっしゃいますか?
⑧ この質問には端的に答えましょう。
読んでません。
これ以上書くと読まぬ作品を批判し、知らぬ描き手を傷付ける事になります。


9、「リリカ」1977年から1981年に発表された作品集であり、その中にはそれ以前のものに収められた作品も含まれています。「リリカ」についてのご自身の解説と、このコレクションが宮西先生にとってどのような意味を持つのかお聞かせください。
⑨ 本作「リリカ」に収めた作品は前作「エステル」の作品群へつながるものです。
エロティシズムコミックを初めて意識して描いた記念すべき作品『貧しきフリュート』から始まり、同年に描いた『ふたなりの夜』。後年の作『鶏少年』をはさんで『花粉』『エンゼルの丘』『月の園』と進んで、マンガ大快楽での傑作郡『大きな黒い岩、メロンの岩、十七歳の妾』岩が出てくる三部作につながり、貧しきフリュートの次に「ヤングコミック」に描いた初の連載作『Changes』と、同時期作4ページ。そして「大快楽」誌における後期『ぼくのお尻にきみの勇気、肉体関係、充血FRUITS』へ。充血……にもやはり岩が出できますね。次にニューウェーブ的な小品2本。そして最後を飾る「大快楽」に描いた奇妙な時代劇『鬼百合秘』と『五月物語』へと至ります。
こうして御覧になるとお気付きになると思いますが、作品ごとに点描が増えて行くのが分かります。まったく無いものもあります。是非それが与える感覚の違いをお楽しみ下さい。
そしてイタリアの読者の皆さまに最も見て頂きたいのが『貧しきフリュート』です。
これにはまったく点描は使っておりません。従来のマンガテクニックの洗練された形です。狙いの感覚の邪魔になる線は排除しました。同じテーマの作品『鶏少年』と見比べて下さい。こちらには点描が使われてます。それによって全体に画面が重くなり。少年の性というテーマからは程遠い。テーマと線の不一を示しています。
マンガに精通した読者なら、ここをこうした方がもっと上手く描けるのに、との指摘もあるでしょう。が、私は意にそぐわない線は引きませんでした。この"我"を通せたのは唯一この作品だけです。
私のこの作品に於ける狙いとは?。
美しい線と美しい形を愛らしさと言う感受神経に繋げること。
無垢な線、無垢な少年、その最初の"無垢な性の匂い"を描くことなのです。
当時こんなことを言おうものなら狂気扱いされるのが落ちです。
これは今だから言えることなのです。


10、最後の質問です、宮西先生の作品を読むイタリアの読者にメッセージをお願いできますか?
⑩ イタリアの読者の皆さま。
インタビューの応答が随分と長くなりました。最後までお付き合いいただき有難う御座います。
貴国イタリアは、私が幼い頃から慣れ親しんだ国です。日本の現代文化芸術に於けるその影響には多大なものがあります。私の作品もその例にもれません。
今回の出版はまるで里帰りの気がしてウキウキと心躍る思いです。
いつか、そうは遠くない日に私は行くでしょう。
そのときシェンキェヴィッチの小説にあるように「クオ・ヴァディス・ドミネ」と訊ねる人があれば、
私は答えるでしょう
「ローマ」と。
皆さまの心豊かならんことを--宮西計三(2024年6月)