真崎守のアシスタント時代
ーー真崎さんのところに行く前に二人の漫画家に会っていると言うのは、どなたですか?
宮西▪ 一人は大阪の山上たつひこさん。「光る風」が好きだったからね。
ーーそれは中学校の頃ですよね。
宮西▪ そうですよ(笑)。
アシスタント云々ではなく、とにかくプロに作品を見てもらいたくて。大阪ならそれほど遠くないから。
山上さんのお宅は工場が建ち並ぶ工業地のいっかくに隠れるようにひっそりとありました。
大きな、ゴールデンレトリバーだったかな? 人懐っこい犬がいてね、お母様が優しく迎えてくださいました。山上さんは二階でお休みでしたが出て来てくれて、本当に真摯な好青年。背が高くってスラッとしてて、頭の良さそうな二枚目でしたよ。
そうだ、カルピスだ!冷たいカルピスを出してくれたから夏ですね。ギラギラの夏でした。
それと、もう一人は永島慎二さんです。
ーー永島さんは東京ですよね。
宮西▪ 阿佐ヶ谷。だから、僕が最初に東京に来て降りた駅は阿佐ヶ谷なんです。
その時は父親も一緒です。普段は知らん顔の父でしたが、やはり息子の行く末を案じていたんでしょうね(笑)。
永島さんのところに行って、絵を見てもらって、あの人の言い方では「アシスタントになったり、出版社に作品を持ち込むことだけが漫画家になるということではない。働いたり色々な人に会ったりすることも道だからね。プロになりたいと思う必要もない。」と言
うことでした。それで、すごすごと帰りました。(笑)
ーー帰ってって、生駒にですか?
宮西▪ そう、そうですよ。だから家出する前ですよ。「ああ、これはダメだ、僕のこと分かってくれない」もうあの奥の手しかないと腹をくくりましたね。つまり家出ですね!
ーー中二で永島慎二さんに会いに行くってすごいですね。
宮西▪ それまでに年賀状とか暑中見舞いとか出してたからね。まあ、ダンさん(永島慎二)に会ってすごく感動したけれども、子供心に冷たい人だなとも思った。ようは、親と一緒に来る奴なんてはなっから相手にしてなかったってことね(笑)
ーーその時点で、作品は何作品か描いていたんですか?
宮西▪ そんなに描いて無いよ。
ーー何ページくらいのものですか?
宮西▪ 20数ページくらいかな?
それで三年生に入り、奮起して新しいものを描いたんですよ。
すると描けたの(笑)! 思いの80%の絵が! そこからはひとコマごとに上手くなって行くのが手に取るように分かりました。
それで、自分でも結構いい作品が出来たなと思ったら完成しなくても、数ページ出来たものを大事にしてた。
それを「アシスタントにしてくれ」と真崎守さんのところに持って行ったわけです。奥の手でね。(笑)
ーー真崎さんのところに持っていくきっかけは?
宮西▪ その頃、宮谷一彦さんもバリバリで、漫画少年たちの憧れるスターでした。
ーーやっぱり、あの画風は好きでした?
宮西▪ 好きでしたね。園田光慶(ありかわ栄一)さんとかね。でも、それとは逆の好み
があって、それにはまだ自分でも気が付いてなかったけれど、それは、性の問題です。宮谷さんも性を描いていたけどボクにはそれに反発を感じてました。感覚が普通なんです
よ。
ダンさんの場合もセンチメンタルな性としかみえなかった。
だったら何故、画の上手さから見ると劣るとしか思えない真崎守なのか? と言われるでしょう?
違うんですねぇ、それはね、宮谷さんのところにアシスタントに入れたとしても、自分は宮谷色に染められて、そこまでで終るだろうって。
同じようにダンさんところでも自堕落に破滅するだろうとね。ボクは感じてました。これは描き手にとって決定的な敗北ですよ。年端も行かないガキに人間性までも見切られたんですからね!
結局お二人はスタイリストでしかない。スタイリストは鏡に見とれるか目を反らすしかありません。しかし真崎守はその鏡をぶち割る人なんですよ!
ボクには幼少から神経症のチックがありました。それは性の病だと思ってます!
その頃、真崎さんの絵を評して下手くそであるとか、硬いとか言う人がいたけれども、僕はそうは感じなかったのね。すごく描き分けられた線で、感情に訴えかけてくる。
この固く鋭い線でボクは打ち砕かれなければならかったんです。そこにしか生きる道は開けないんです。この性の感覚をボクにとっての宝にするためにはね!
只デッサンが上手いだけで、訴えかける方法を知らない、線の塊で絵を描く人や形の正確さにこだわる人には到底わからないでしょう。あの真崎守の凄さは!
これもベルメール等と出会えたお陰です。
ーーそれで真崎さんのところに押しかけていくわけですね。
宮西▪ 中学卒業まで待ちきれなかったね。(笑)あと2ヶ月と言うところでフライングの奥の手、ちょっと家を空けました。(笑)
真崎さんのところでは本当にショックでしたよ。泣べそもの。改めてこれがプロかと思いました。太刀打ち出来ない。今まで描けてた線が萎縮しちゃって一本も線が引けない。そのショック状態が正式に真崎さんのところに入ってからも続きましたね。
ーーどれぐらいで線が描けるようになったんですか?
宮西▪ 線は描けるんですよ。でも、声は出るけど唄えないと言う感じ。
ーーなるほど、では唄えるようになったのはどれぐらいからですか?
宮西▪ 真崎さんが「計三、このコマ描け」と言うわけです。自分ならどういうふうに描くか全部任されるわけです。自分で描ける線で、プロとして見れる線が何種類かあることが分かったから、その何種類かの線だけで描いたんです。
そうすると真崎さんがすごく気に入ってくれて「これでいい」って言ってくれる。その繰り返しですね。
ーーコマ毎に描く人が違うんですね。
宮西▪ そうですよ。当時は3人アシスタントがいましたから、僕が一番下っ端。他の人は慣れているから、自由自在にバックを片付けていって、背景を描いていくようなことが出来る人たちでした。僕はそんな真似は出来ないから、描けるところを、ベタや模様や簡単なバック処理が主な仕事でした。
先輩たちもちゃんと見てくれていて、「おっ、これは良い。これ描いてみろ!」「それ、それ、それはダメ、ダメ!」とかね。真崎さんも先輩たちに「計三にはこういう仕事をさせろ」って言ってくれてたみたい。
ーー自分が描いたコマが出版されて見るじゃないですか、その感慨とかありました。
宮西▪ やっぱり、嬉しかったよ。でも、一番最初に描いたのはバケツに掛かってる雑巾だからね。(笑)
それを先生は、「今までウチにはなかった生活感だ! 凄くいい」と言ってくれました。
一歩仕事場に入ると、消しゴムかけとかベタ塗りとか下作業で手一杯。背景を描くなんておこがましいというような状態で。
ーーアシスタントは二年と決まっているということでしたが、そうすると次々人が変わって流れていくわけですか?
宮西▪ そうです。
ーーその二年の間に自分の作品はどうだったんですか?
宮西▪ 描く時間もなかったし、描いてもたかがしれてたと思う。それに描けなかった。
普段は朝8時から夜8時までかな。それが締め切り間際になってくると、だんだん不規則になって、最後には徹夜が続く。
ーー宮西さんはその頃どこに住んでいたんですか?
宮西▪ 西武池袋線のひばりヶ丘。真崎さんの最寄り駅だったから、ボクも近くにアパートを借りました。
ーーアシスタントのお金は出ていたんですか?
宮西▪ 勿論! それにその頃はまだ父親も元気だったから、時々助けてもくれましたし、贅沢してましたよ。(笑)
ーーどういう贅沢ですか?
宮西▪ 本ですね。漫画であろうがなんであろうが、1ページでも気に入った頁があれば買ってましたね。それにレコードでしょ。やっと音楽に目覚めた。
いつも仕事場で真崎さんがレコードをかけていたから、その影響があるかな。浅川マキさんであるとか……
ーーそこからブルースにいったり?
宮西▪ ブルースはもっと後。
その頃は真崎さんが友部正人さんのジャケットを描いたりしていて、フォークもよくかかってた。ジャニス・ジョップリンやピンク・フロイドもよくかかってたね。僕には正直分からなかった。
そうこうしているうちに、Tレックスがカッコいいとか、デヴィッド・ボウイとかイギリスのロックを聴くようにましたね。
新しく入って来たアシスタントにロックが好きな人がいて、その人はビートルズが好きで、彼にとって革命的だったのはピンク・フロイドだと言っていた。彼がいち早く輸入盤を買って、僕が国内盤を買って歌詞カードをコピーしたりしてましたね。彼は後から入っ
ているけれども、僕より年上で、演劇にも興味があって、戯曲のことを教えてもらったりしましたね。
ーー文学的なものはどうだったんですか? 稲垣足穂とかロシア文学は?
宮西▪ これももっと後ですね。稲垣足穂はガロ系の人たちがよく取り上げていたし。まりのるうにいさんが装丁をしていた潮出版社の作品集が書店で目立っていたから。日本文学の中では一番好きな作家です。
ーーロシア文学は?
宮西▪ これももっと後ですね。もちろん知ってはいたけれども。
注・宮西さんのアシスタント時代に関しては「極私的 音楽論」に詳しい
そのほか「宮西計三・真崎守を語る」もあります
★真崎さんが後に感動したと言った持ち込み原稿「雨のリング」から。
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