声にならない声も聞こえてくる……。 それらが自分だけに見えたり聞こえたりするのだと考えると何だか偉くなったようで嬉しい……。マサ寛は毎日陰気に考え込むばかり……。 「あいつ等は哀れなもんだ。何んも知らんとおる。ナオ寛にしたってカズ寛にしたって知らんのだ。俺だけが知ってる。あの声が云う事は俺だけにしか解らん……」 「今は待とう……。声が聞こえるまで、あの声がヤレ! と云うまでな」 マサ寛は何か大きな期待に身が震えるのを感じた……。 「そうや。俺はどえらい事やるんや!」 日々は砂時計の砂のように落ちてゆく。 年も明け、マサ寛のことなど気にもとめる者は誰もいず春は過ぎようとしていた……。 宿命の砂時計は空(から)に向かって落ちてゆく……。 そんなとある日曜日。マサ寛は久しぶりに少年の前に姿を現した。 250ccの真新しい上の弟カズ寛のバイクだ……。 「弟怒らへん!?」 「ハハハ! 怒るやろな! エエ! エー! じき要らんようになる!」 「エ?……」 マサ寛は少年を後ろに乗せてふっとばした……。 村から程遠からぬ所に山を切り開き住宅地用に造成中の広大な場所がある。 二人はそこにバイクを乗り入れた。工事は中断しているのか? 誰一人いない……。 正面には生駒山へと連なる小高い山が迫り、それを小川が山と造成地の境になって隔てている。その斜面をよじ登ると近大野球部のグラウンドがあり、小川を左に遡れば中井家の地所でもあるマサ寛の屋敷裏の竹藪とつながる。そこから幾分山手に迂回すれば後に釣り堀となる大きな池に辿り着く。 その日のマサ寛は、饒舌とはいわないまでも多言で楽しそうであった。 唐突に脈絡も無くぼそぼそと話すのであるが、やはり何処か変だ……。 自衛隊のことを他人に喋るのは少年が始めてである。 「非道いとこや! 何奴も此奴も威張りくさって! 戦車乗ったり拳銃撃てると思ったら……そんな事あらへん! 朝から晩まで……、人をバカにしてな。結局“インキン“貰て帰っただけやー!」 マサ寛は両手広げて、うつすぞ、とお道化けてみせた。それから急にしんみりとなった……。 「ケーゾちゃんはどう思うかな? あのな? こう言うことや……。」 とこんな話を始めた。 それは夏の暑い日だという……。彼は山手の大池辺りで涼もうとしたらしい。 日陰は濃く水辺からは冷気が吹いて心地良かった。 木陰で一息つくと又しても熱気が襲ってきた……。 彼はたまりかねて水に飛び込んだという。 そこで彼は見つけた……。 それは水死体だ。 「慌てて通報したらお巡りと一緒に村の消防団の奴らノコノコ来よったわ……。したら、誰も怖がって池に入りよらん! しまいには発見者が行きゃいいと云いだして……、結局俺が死体を上げたんや」 地元署は端っから事件性には目もくれず自殺と決め込んだ。奴等はこんな田舎で事件などある訳が無いし、又あってもらっては迷惑とばかり早々に処理してしまったと云う……。 「この話どう思う……?」 マサ寛は少年の顔を覗き込んだ。 「自殺?」 少年の答えを聞いてニヤリとわらった……。 「かも知れん……。じゃ無いかも知れん……!」 少年に今のは本当の話か? 何時の話か? と聞かれると……。「前かも知れん……。これから先かも知れん……!」 このようにはぐらかしてしまった……。 再び二人はバイクに跨がり走り出した。 車輪は何時果てるとも知れない物語のやうに周りの物を巻き取ってゆく……。 マサ寛は最初、例の池に行こうとしたが気が変わってやめてしまった。また其処で何や彼やと考えてしまうと思うと嫌になってしまったのだ……。このまま何も考えずに運転だけに集中していたかった。 マサ寛は先程またぞろ顔を出しかけた“鬱ぎの虫“を振り切りたかった……。 街道を抜け川を越えて生駒山を巡るスカイラインをフッ飛ばす。二人には馴染みのコースだ。 バイクは山を下りた所で街道に戻り生駒川沿いの幹線道路へと出た。マサ寛はハンドルを大阪方面に切ると再び川沿いを走り出す……、丁度その時である。 二人のバイクを追い駆けるようにサイレンの音が聞こえた。 「パトカーや!」 背中で少年の叫び声を聞いてマサ寛はギクリとした。 「振り切るぞ!」 バイクはスピードを上げた……。 サイレンはどんどん近づいて来る……。 マサ寛が大声で怒鳴った。 「いいか! 合図したら飛び降りろ!」 パトカーが直ぐ後ろにせまった、振り切れない…… 「それ!!」 合図の声と同時に少年は跳んだ。 マサ寛はその途端に、しまった! と思った。バカだった! このスピードで飛び降りれば只では済まない。下手をすると大変な事になる。しかも飛び降りたところで事態がどうなるというのだ!? マサ寛は急停止すると少年の元に駆け寄った……。 パトカーはそんな二人には目もくれず追い越して行く、一台二台三台と蹴散らすやうに走り去った。 幸運にも少年は擦り傷と軽い打撲程度ですんだ。 出血した手をハンケチで結わえながら笑おうとしていたが、さすがにその顔は痛みに歪んでいた……。 マサ寛は動揺してしまった……。 まさか本当に飛び降りると思っていなかった。なのに此奴は難無く飛びやがった! もし俺に今、合図があったとしたら……、俺は飛べるだろうか!? 日暮の手前で時間が止まった。 二人は今、阪奈道路を歩いているのだが、先程からマサ寛の様子が変である……。話す事も支離滅裂で、ぼんやりして運転もろくに出来なくなってしまっていた。 今もタバコに火をつけようとマッチを擦るのだが、一向にタバコに火を付けることが出来ないでいる……。 見かねた少年は火を付けてやるのだがその時彼はマサ寛の只ならぬ異変に気付いた……。 いくら帰ろうと言っても一緒に居てくれの一点張りで、阪奈道に入った時も、近くに親戚が住んでいるからと言う話であった。その話は少年が確かめる毎に変わるのである。 親戚が知人になり、バイクを買ってくれると言うかと思うと、貸した金を返してくれるだとか、ナナ・ハンと交換してもらうとか……。 少年は此処まで来たら付き合うしか無いと腹をくくった。 既に陽は落ちていた……。 こうしてマサ寛は、少年を一晩中連れまわすことになってしまった。 翌朝マサ寛は最後の正気を振り絞り、少年を一人始発電車に押し込んだのだ。 これが二人の最後の別れとなった……。 二度と再びマサ寛を少年が見ることはなかった。 月日は過ぎて翌年の春のこと……。 少年が中学校を卒業して、上京を間近にしていた或日のこと、 マサ寛の母親が彼を訪ねて来た……。 母親はマサ寛からだという小さな紙包みを差し出した。 「あの子が渡してくれと……。悪いことをした、許してほしいと伝えてくれって……」 「それから……、オレのこと忘れないでくれ。とも云ってました……」 お袋さんはこれだけ云うと帰った。 紙包みをあけて見た少年は何とも言えない心持ちになってしまった……。 東京へ行ってしまう彼への餞別であろう贈り物、それは…… 12色の「さくら絵の具」だった。 今ボクの目の前にその「さくら絵の具」はある。 真新しいまま封も切らずに……。 はたして<マサ寛ちゃん>があれからどうなったか。 ボクは知らないのである……。 あの“合図の声”を聞いたのか? そして声の云う通りの“デカい事”をしたのかどうか? ドラマであればいくらでも劇的なクライマックスに仕立てるが“ここ”は彼の名誉と尊厳に関わる一点である。 よって迂闊な憶測や判断は軽率の謗りを免れないものとして、この挿話は此にて終わりとする。 完