book CD Merchandise Exhibitions Essay Profile contact

宮西計三インタビュー「苦痛の報酬」1/4
生駒山の小学生時代
ーー1980年の「ぱふ」でのまんが家訪問というインタビューがあり、漫画家になるまでの宮西さんを端的で分かりやすく説明してありました。
宮西さんは生まれが大阪で、そこから奈良県の生駒山に引っ越されて、その山がすごく怖いものだったということでしたね。
宮西▪ 小さいから分からないながらも、何か孤独感というか取って喰われるような怖さを感じていましたね。

ーーお姉さんがいらっしゃって、そのお姉さんとは仲が良かったと聞きましたが、それでも何か孤独感を覚えていたと?
宮西▪ はい。姉は典型的な良い子でした。勉強が出来て弟の面倒も見る、でも時おり母に噛みついてましたね。「ウチはケイゾウの子守りやあらへん!」「何時も一緒で 遊びにも行けへん!」てね。
生駒山は何せ寂しい所だから。山の中で街灯もないし、夕方になったら懐中電灯を持って家路を辿るというようなところですよ。
姉だけじゃなく同年代の友達も近所にいましたよ。小さな村でしたから大声で呼べば応える所にね、でも誰もボクを知らない、ボク自身もなにも、心も森の中だったんですよ。

ーーその寂しさを紛らわせるものが漫画だったと。
宮西▪ そうだね。漫画しかなかったね。

ーーその頃の漫画というと「少年」(光文社)とかですか?
宮西▪ 「少年」、「まんが王」(秋田書店)、「少年画報」(少年画報社)、「ぼくら」(講談社)。週刊の前の月刊誌の時代でしたね。しばらくして「少年マガジン」(講談社)、少年サンデー」(小学館)というものがあるんだと気づくわけです。それが何でわかったかというと、散髪屋さんに行くでしょ、そこに置いてある漫画を見て、「これ僕も欲しいな」と思って、おねだりして買ってもらってた。
ウチの母親の偉かったところは、子供たちの欲しいと言う物に対して「ダメ!」と言ったことがなかったことですね。よそん家では漫画なんて買い与えないという親がほとんどでしたから。
その頃の漫画はとにかくページが明るく感じたの。今思うと、光り輝いてたね。

ーーその頃好きだったのはどんなものですか。
宮西▪ 僕は手塚治虫さんより石森章太郎さんが好きでした。他には「宇宙少年ソラン」(週刊少年マガジン)、「鋼鉄人間シグマ」(週刊少年サンデー・塚本光治)の宮腰義勝さんが好きでした。

ーー「宇宙壮年ソラン」はアニメの方の印象が強いですね。
宮西▪ そうですね。TVとタイアップの走りかな? アトムも知ったのはTVが先だったけど、夢中にはなれなかった。手塚マンガはキレイ過ぎるの、上品なんだね。
ボクはもう一寸垢染みた手触りのある絵の方が好きだった。後は小沢さとるさん「サブマリン707」(週刊少年サンデー)も好きだったなぁ。
あの頃はSFっぽいものが多かったね。逆に忍者ブームでもあったから、まるでアンビバレントな感じだね。

ーー石森章太郎さんなら「サイボーグ009」(週刊少年マガジン)とかですね。
宮西▪ そう。「ミュータント・サブ」(別冊少年サンデー)もありましたね。石森さんの少女漫画時代の作品やギャグ漫画はその頃はまだ知らない。元来ボクにとって少女マンガとギャグマンガは興味外だったから。
あとは「少年」誌の白土三平さん。「サスケ」ですね。

ーーそれは小学校時代ですか?
宮西▪ 小学校上がる前から見てたような気がするけど。

ーー中学校も生駒ですか?
宮西▪ そうです。姉と4歳違うんですが、僕が小学校5年の時に姉の高校通学のことを考えて、山の奥だと大変だというので、生駒山の麓の小さな駅の近くに引っ越しました。そこから僕の活動範囲も一挙に広がって毎週土曜日、半ドンの授業が終わると駅三つ先の生 駒まで行って、書店廻りとか古本屋さんを見るのが楽しみになりました。そこで色んなものに出会えた。

ーー中学生になってもやはり興味は漫画だったんですか?
宮西▪ 狂ったように漫画漬けでした。姉も高校生になって写真や映画に夢中でした。サントラの75回転盤レコードなんかを買って、小さなポータブルプレイヤーで聴いてました。ボクは音楽には興味がなかったからそれほどでもなかった。姉は文学にも興味があっ たらしく家には文庫本が沢山在りました。岩波や新潮、ハヤカワ等と。気が多いんですね。(笑)

ーーでも、四つ違うとなかなか分からなくないですか?
宮西▪ 分からなかったね。漫画の方がいいやー! と思ってた。
姉の方も漫画には興味がなかったみたいだけど、僕がいつも購入していた白土さんの「カムイ伝」だけは「読ませて」と興味を示しました。「カムイ伝」はその頃の大学生たちの間で、全共闘の指南書のようにして読まれていたから、「ああ、姉ちゃんもそうか!」と 思ったりね。(笑)

注・宮西さんの少年時代に関しては「極私的 マンガ論」に詳しい


生駒山の中学生時代

ーーよく話に出てくる、ベルメールを知ったという「世界⚪︎秘画」(KKベストセラーズ)はいつぐらいですか?
宮西▪ 小学校5年生!(笑)
ーーええっ、それは早い! マセてますね。
宮西▪ だから、生駒山の麓に引っ越して世界が広がったと言うのはそこなの。
毎週末古書店をを漁るようになったその時に新刊書店だったけど、見つけの。本当は朝日ソノラマの漫画を買いに行ったんだと思うんだけど、ちょっと棚を見たら……
ーー怪しげな!
宮西▪ そうそう、怪しげな、レオノール・フィニーの絵が表紙の本があって、ポケット画集だね。でも「漫画だ!これはマンガだ!」と思った。それまで見たことの無い世界、エログロと幻想がそこにありました。「これがボクの漫画や!」と思ったんです。勿論、思 春期の興味本位もあったよ。漫画ではない絵の本だとは分かってましたけど、僕にとっては美術で教わったものとはまるで違ってました。いろんな物がドスンと腹の底に落ちた気分でした。漫画の一つの世界を見せられたようで。
その中でもハンス:ベルメールの線を見て驚きました。「ああ、この絵いいなー! こんな絵かを描きたいなー!」と思ったものね。
それまでは、世界で一番絵の上手いのは、さいとう・たかをや永島慎二と思ってたけど、アハハハハ、あの頃、上手さからみると桑田次郎さんに石川球太さんは抜群だったよ。けど全部ぶっ飛んで幼稚に見えちゃった(笑)
それでもまだ子供らしいところがあって、石森章太郎さんの『漫画家入門』や『ファンタジックワールドJUN』なんかを大阪の大書店まで買いに行ったりしてましたよ。

ーー「少年マガジン」とか「少年サンデー」を読んでいて、当時大人気だった「巨人の星」とか「あしたのジョー」のような梶原一騎の世界はどう見てたんですか?
宮西▪ 1行も読んだことがありません。絵だけ見てた。川崎のぼるさんの絵は上手だし、ちばさんは「ジョー」で終った、というのが当時のマニアの定説でした。ボクは『島っ子』『あかねちゃん』が大好きでした。子供を描かせるとちばてつやさんは日本一です!

ーー絵だけと言えば、フランスで宮西さんの「リリカ」、イタリアで「エステル」と「リリカ」が出版されましたが、文字が読めない分、絵に集中できて今までと違った印象を感じました。
宮西▪ ひとつフィルターを掛けたという感じがするね。

ーー中学生になって漫画倶楽部というものに入られますが、これは自分で作ったクラブですか?
宮西▪ そう、独り倶楽部です。中学二年入って直ぐだったかな?会員ゼロです。本に載る感覚ってどんなかなと言う興味もあってのマンガ家ごっこ。まぁ一つの自慰ですね。(笑)

ーーどこで回してたんですか?
宮西▪ 自分ひとりで楽しんでた。(笑) あと、僕が一年生の時に3年生に二人漫画好きの先輩がいてね、一人はさいとう・たかをそっくりの絵を描く人で、もう一人はダンさん(永島慎二)そっくりな絵を描くの。小学校も同じだったから、その二人が机に描いた落書きが机に残ってるんですよ。こうして残 された痕跡を見てぶっ飛んでた訳です。二つ下の僕は「ああ、すごい上手い人がいるな!」って。
それで中学入学したとき彼等は三年生でした。さいとう・たかをそっくりに描く人が、「無用の介」の殺陣を絵巻で図解した作品を夏休みの自由課題として提出してしてたのね。それを見て声をかけました。その二人ぐらいかな。

ーー宮西さんのその頃の画風は誰に似てたとかあったんですか?
宮西▪ 漫画は描いてみたけど、下手くそで、まるでお話にならない。だからただ見るだけ! 本格的に描き出すのは二年生から。 それに比べ先の二人は本当にプロ級だった。素晴らしかった。
それで、ある日「おい、お前。あの絵描いてたのお前やろ!」って声をかけた。
ーーええっ、相手は上級生なのに?
宮西▪ 田舎の中学生は敬語なんか使わないんですよ。生意気で、悪ぶりたいところもあるからね。(笑)
それで話し始めたら、だんだん打ち解けてきて、「オレも漫画が好きで、漫画家になりたい。誰々の作品が好きで、いま桑田次郎の「アンドロイド・ピニ」(東光社・ダイアモンドコミックス)を捜してると言ったら、「持ってる」と言うわけ。
さいとう・たかをそっくりに描く人は袋本(フクロモト)くんと言うんだけど、彼の家に行ったら、朝日ソノラマから出てるコミックスがズラリと在って、他にも珍しい漫画の単行本が書棚に並んでるんだよ。壁一面に、すごかった。
それでね(笑)彼はね、ボブ・ディラン良く似てるんだよ! そっくり(笑)。
もう一人が田中くんと言って、母親同士が仲が良かった。なぜ仲がいいかと言うと、山に住んでる頃、駅を降りて山道に向かう前の橋の袂に自宅の玄関先で天麩羅やタコ焼を売ってるとこがあってね、母親はそこでよく買ってたの。親父さんは戦争で脚を無くしててね。
家の父も同じだったからということもあって、親しみがあったんだね。田中くんはそこの長男だった。
店先から中を見ると見馴れない本があったので不思議に思ってたら、以前は貸本屋もやってたということだった。それで成程と。マンガ好きといっても普通はなかなかダンまで知らないもんですよ。
田中くんはダンさんそっくりではあるが、よりモディリアーニ風で詩情あふれる絵を描いていた。

ーー漫画を描かなかった宮西さんが、閲覧するような漫画を描くようになったのはいつですか?
宮西▪ 先にも言った中学二年の春。僕は切羽詰まってた。二年になると焦ってきたのね。どうしても卒業したら東京に行って漫画家になると決めていたから、それはそうしなければならない義務があったの。それには作品が必要でしょ?
ーー義務って?
宮西▪ ハハ、決意、と言えばさしさわりないんだろうけど、そんな軽いもんじゃないんだ。(笑)その年の三月だったかな・・・・
朝、母親がパートに出る前にボクに訊くんだよ・・「ケイゾウ、お母ちゃんと死んでくれるか?」てね。
こう言ったことはちょくちょくあることで、これで三度目だった。
ボクは又か、と言う調子で…「いやや、漫画家になるからあかん。」 母親は…「そうか、ほんなら好きに生きるんやで。悪いけどカアチャンにはもう何もしてやれん。堪忍やで。疲れれてもうたわ。お願いやからカアチャンを自由にしてな・・ほな行って来るわ。」そう言って母は玄関を出た。
ボクは実に嫌な胸騒ぎに母親の後ろ姿に呼び掛けた・・「帰りにキング(少年キング)買って来てぇや!」母の後ろ姿はかすかに頷いたようにボクには見えた。けどね、母はそのまま失踪してしまったの。キングは何の担保にもならなかった訳だね。
その日から上京して漫画家になることが絶対の義務となったんだよ。「しくじれば死ぬだけ!」と真剣に思ってたよ。(笑)ちょうど「少年キング」誌上では「新進気鋭短期集中連載!」池上遼一『追跡者』が始まったばかりだった。

ーーそれで、肉筆回覧誌漫画を描いたと。
宮西▪ それはアシスタントになるための第1ステップです。描かなきゃ上手くならないからね。見てるだけの時期は終りってことです。
ーーその頃にはもう真崎守さんの作品には出会っている?
宮西▪ もう出会ってます。青年誌も買ってましたから、殆ど読んでました。古いものは古本屋で探し出したりして。「燃えてすっ飛べ」(東京トップ社)、「地獄は何処だ!」(東考社)等々。
最初「あっ、この人、あの人だ」と思った。TVアニメで「ジャングル大帝」ってあったでしょ。演出もり・まさきって出てくるんですよ。
ーーよくそんなところを覚えてましたね。
宮西▪ タイトルバックのカット割りがすごかったんです。他のアニメと全然違った。すごく鋭くて、入ってくるものがあって、子供心に気になってたのね。演出もり・まさきってクレジットが頭に焼き付いたんだ。それで、ある日古本屋でエロ漫画を見ていたら、も り・まさきってあるじゃない。貸本の文化というものを知るわけ。
「刑事(デカ)」という書き下ろしのオムニバスが出ていてね、それに載っていたのがダンさん、宮脇心太郎さん、それに真崎・守だった。バックナンバーは殆ど持ってたよ。
そうした貸本の中に峠あかねというペンネームで論評を書いたり、もり・まさきという名前で漫画を描いているのを読んで、あの「ジャングル大帝」と合致したのよ。そうこうしてるうちに真崎・守と変身して少年マガジン等に登場するわけです。
そこら辺になると貸本時代は終わって、青年誌に移行していきますね。マンガ家も一般的にウケる人たちは少年誌に引き抜かれて週刊連載を始めます。そうではない腹に逸物あったり無かったり(笑)する描き手は青年誌へと流れて行くのね。

ーーそれまで少年誌を読んでいた人が大人になっていくし、それに合わせて青年誌に移行するわけですね。
宮西▪ 「あれ見た、石森がいやらしいの描いてるよ。さいとう・たかをが「ビッグコミック」でHなの描いてるよ」とかみんな言ってたね。

収録/2024年9月8日 盛岡市安倍館にて(最終校正2026年4月2日)
★中学校当時の作品