レイプだろうが殺人だろうが、戦争だろうが、ほとんどの人は芸術というレンズを通せば安全だと思っている。それが私には不思議なんだ。 夜の闇をつたって自分の身体に、あるいは意識に入り込む不安を、私はいつも感じている。 宮西計三の文章は悪い夢の共有だ。過去の、済んだ出来事ではなく、いまだに喰うか喰われるか。襖をあけたら、夢は牙を剥いてくる。 よく書けたね、こんな怖い話。墓を暴くのと同じだわ……。(薔薇絵)
「雨ふり月」 滔々と流るる三途の河のそのたもと泥土こねた芦屋の窓に書卓に向かう影一つ……。 暗渠(あんきょ)の秘密を泡立て運ぶ浪飛沫(なみしぶき)…… 欄干に佇む女の足を撃つ……。 女は橋にて大音声に呼ばう……。 「帰れ!行け!」 されど虚し……。 水音高く女の声は掻き消さる……。 別れの日となる朝にフミコがこのような夢にうなされて起きなかったともかぎらない……。 目覚めた時には今日“アレ”をしようなどとは考えていなかったかも知れない……。 確かにアレなる誘惑は一つの凝り固まった妄念となっていたが、それを否定し退けて来た毎日も又事実である。 ただアレの感覚に酔っていただけなのか? たった一つの自分に許された快楽ででもあるかのやうな……執着で。 そんな訳で彼女には何時何処でどうなるか判らないと言う危惧が付きまとう。だからそうした際への備えをするのが習慣となってもいた……。 あの日も名前や住所や勤先といった身元の判る物は持たなかった。 息子にも同じやうに身仕度させ、ただ現金だけは多目に持って出たのだった……。 「そうなったらなったでいいし、金など持って行ける訳でも無い……好きな物でも買ってやろう。場合によってはあの子に持たせなきゃいけなくなるかも知れないし……。」 これがフミコの備えであった。 この時点では理性でまだ完全には妄念に呑み込まれていないように見える……。 しかし児童相談所には家を出た時から既に行く気など無く、単に息子と二人切りになる理由でしかなかった……。 これは酩酊状態にあると言っていい。 このやうに憑かれた者たちは海底(みなぞこ)を歩く者に似ている……。 意識ははっきり危険を感じているにもかかわらず逆らい難い潮流が海溝の上に右へ左へ体を弄ぶのを甘んじている。 哀しくも奇妙な水死人の踊りである……。 フミコたちも同じやうに奈良の街を泳いでいたのだろうか……? このやうな彼女の精神の混迷は何処からくるのだろう……? 先天的なものかもしれない……。 親の虐待のせいもあっただろう……。戦中戦後の青春時代……。後に受けた避妊手術……。慢性頭痛による鎮痛剤の常用も考えられる……。 更に肉体的疲労、性的欠如に欲求不満、生活環境の劣悪など……それからそれからetc.etcである。 しかしそんな原因を知ったところで何になろうか? そんな事より彼女の強さはいったいどうしたのだ? どうして善き力として現れないのだ!? と問いたい……! 世の中に潜伏する疾病や障害は数限り無く、全人類は何等かの病巣を抱えていると断言して間違い無い。 なにも悲劇的な行動や社会構造を糾弾しやうなどと想わないが、彼女のケースなど目新しいものは何も無く、どんな臨床医も喜ばすことは出来無いだろう……。 寧ろここではそういった彼等、彼女等に弊害をもたらす根本に彼等彼女等の本来の姿を求めるのである。 障害を持つ持たないにかかわらず人が抱える神秘をである。 その汚穢(をえ)と化した奥つ城に取り憑き病巣と変質したるものを問題としているのだ。 医学的には体内の異常部位をとっかえひっかえすれば良いのだろうが、病巣化した所にこそ個体に及ぼすマイナスとされる悪影響と同じ位に別のプラスのとまでは言わないが何か正統性のやうなものが有ると想えてならない。 そこにオルガニズムの幻想と言えるものが眠っているのだ……! それを如何に自覚し且つ言語として視覚として現象化するか? それを成し得る時、病状として現象化された悪影響と対峙するもう一つの現象が現れるのであるまいか? 即自から対自、そして総合へ……! これは和解への道であり医学的ではない治癒の道と言える。 そこで彼等の狂気と苦悩に希求する……。 全ての同じ被造物として、我等が造物主のミスタッチなる汝の秘められし恩寵(めぐみ)を余すこと無く見せておくれ……!
心の針は右に左に激しく揺れていた……。 おまえの考えとは反対に心は振れる……。 それの繰り返しだった。 おまえが息子に「一緒に……」と言ったとき、既にあの子の答えは分かっていただろ? おまえはあの子だけ帰そうと金まで与えていたのじゃないか……? あんな事を言ってあの子に何を期待したんだ……? 「ボクも連れてって」と縋り付くと思ったか……? 愚かな! わざとだな? あの子に母の窮状を見せつけおまえが腹の“決事”を正当化したかっただけじゃないのか……? それも出来るだけ劇的に……。 そうする為にもあの子は欠かせなかったんじゃないかな? あの子が「否(ノン)」と云った時おまえは一層“アレ”の誘惑に駆られなかったか? そうだ苛立ちさえ覚えたはずだ……。 息子への失望感からいい加減な嘘をついた。三年間などさらさら待つ気は無かったのだ。 おまえは喋りながらも今日家を出てしまおうと心に言ってはいなかったか……? おまえは世間並みが嫌なのだろう……? しかし現実は酷いものだ…… そこでおまえは幸福が得られないなら、不幸しかないのなら、それでもいい…… そのかわり飛びっきりの不幸になってやる!そう思ったのだろう……? どうだ? 図星だろ!? フミコは反駁した……。 そんなことはあるものか! あなたに何が解る! 私を責めるのか? これほどやって来ても私が悪いというのか……!? そうだ! だからこそ話しているのだ……。 おまえはこの今でさえ“アレ”への執着を捨てきれないでいる。 一つの選択肢は消えた……。 残るのは二つ、さあ……どちらにしたものかと考えているじゃないか……? 二つのうち一つは家を出ることで決定している訳だから後は一人でアレをするかどうかだ……。 生きて家を出るか? 死んで家を出るか? とな……! ほらほら、またもやおまえは迷路に迷いこんだ……。 言ってやろうか? 茶番は止めろと……。 おまえは分かってる筈だ。死ぬ気など無いことを、ただ死ぬやうなことをして家族に泣いて貰いたいだけなんだ……。 ただちょっぴり涙の一粒か、安っぽい同情の一言が欲しかったんだろ……? だって死んでしまってはタダオの後悔もユウコの謝罪も見ることが出来無いからな。 だからおまえは息子が一人で帰るようにもしたのだろう……? 将来に渡りあの子の涙を担保するために……。 違うか? あなたが何と云おうと私の苦しみは正しい。私は間違ってないからこそ苦しいんだ……! そうだ。 苦悩に間違いは無い。 間違い無く苦悩はおまえの中の悔恨の徴なのだ! 心臓を噛むやうに痛いだろう……。 その苦痛を与える歯の一本一本を見たことがあるかと言っているのだ……。 ああ……っ、やめて頂戴! もううんざりだわ……。私を放っておいて……。さっさと消えて……! おまえは気付いてる……。 本当は人並みの生活が欲しい……。 それに女としての悦びも……。 その欲望がどれほど烈しいか……。 おまえは認めないだろう……。 だから阿片のやうに不幸を快楽と中毒するのだ! おまえが密にタダオのもとから離れて新たな生活を始めていることを『ボク』が知らないとでも思っているのか……? それはおまえにとってだいそれた事なのだ。 だからこそこのだいそれた事を正当化するだけの劇的事件が必要なのだ。 でないとおまえのモラルが許さないのと違うか……? ふん! 何様だい!? もう止め! 止め止め、こんな話はこれでお終い! そうかい……。 そこまで終わりにしたいと云うのなら、一つ教えてやるとしょう……。 終わりとはどんなものかをな! フミコが振り切るやうに歩度を早め一歩踏み出したその時だ……。 突然彼女は何者かに薙ぎ倒された! よこざまに歩道から車道へ飛び出したと思う間も無く、走って来た車に乗り上げボンネットで一跳ねしてフロント硝子に突っ込んだ! 一瞬だった。 果涯(はてし)も無いその一瞬だった……。 フミコは夢を見た。 遠い夢を……。
遥か故郷の御山を登る少女のフミコが其処にいた……。 いつも空腹であったし今日は特に疲れてもいた……。 藪の向こうの開墾地にお父(ど)がいるのが見える……。 「お父ー! マンマけろう。」 何度も何度も呼んでみたが父親は気付いてはくれない……。 藪を登りきろうとした時やっとフミコに気付いたらしかったが何やら様子がおかしい……。 父親は物凄い形相で叫ぶのだ。 「来るでねー! 来るでねー! 帰(け)ーれ! 行け!」 見ると父親の足下には見るもおぞましい肉の塊が横たわっているではないか……!? 「お父ー! マンマ……。」 父親は尚も「帰ーれ! けーれ! 行け!」と繰り返すばかりだった……。 「帰ーれ! 行け!」
痛ましき響をたてて割れる罪処の落ちるガラスと共に道路に叩き付けられた時……。 フミコの意識は故郷の御山から舞い戻った……。 目の前に息子がいた、意識ははっきりして鮮明ですらあった……。 だが感覚が無い……。 フミコはやっとの事で息子にこう云った……。 「帰れ……! 行け……!」 再び時の螺子(ねじ)が巻かれたやうに忽ち人だかりがして激しく動きだした……。 彼、『ボク』は人垣の外へ外へと追いやられてしまう……。 彼は放心状態でサイレンと共に運び去られる母を見送った……。 It's All Over Now, Baby Blue
これは、言わば事実の骨格に想像と言う肉付けをした考察である。 “現実”には現れる事の無い裏の真実を“実現”せしめんが為の超ドキュメントなのである。 難破した船影を追うがごとくに、岩礁に打ち付けられ軋むがごとき悲鳴をその残骸が粉々になるまで追いかけて聞こうと思うところの、精神と夢へのルポルタージュである……。